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紅屋の歴史

昆布問屋として創業

昆布問屋として創業

創業は寛政5年(1793)。
初代・市兵衛は、北海道産の昆布の集散地として栄えた敦賀港を基地に、松前藩から原料昆布を買い付けて帆船で運び、“かき昆布”(昆布を包丁で梳くようにして削りオボロにする)に加工して、京都、関西方面へ売りさばく中継問屋でした。
松前昆布やその加工品の多くは、敦賀から近江の琵琶湖を渡って京・大阪に送り込まれました。高浜虚子は“萩やさし敦賀言葉は京に似て”という句を詠みましたが、敦賀が京や大阪の北の玄関として交易の要として栄えてきたことを物語っています。
そして、2代目・市兵衛の頃には、敦賀港周辺に20棟もの昆布倉庫を持つほど繁盛しました。

「地の利を生かした菓子を」

「地の利を生かした菓子を」

その後、4代目・豊吉が「地の利を生かした菓子を」と昆布を原料にした菓子製造法を考案しました。明治4年のことでした。これが紅屋の代表銘菓“求肥昆布(ぎゅうひこんぶ)”のはじまりです。
昆布は蒸すとねばり(シン)がとれ、これを乾燥すると、干し柿と同じように粉をふき、甘味が残ります。この菓子を商用往来の人や、鮮満商港となった敦賀のみやげものにさせました。当時のは昆布そのものでしたが、6代目新治郎が、昆布を粉末にして、さらにもち米と砂糖をまぜ、その後も改良を加えながら現在に至ります。

戦後の混乱を経て

戦後の混乱を経て

「紅屋」はもとは「孫八」という屋号でした。今でも年配の方には「孫八」の方がよく通ります。
明治以降は「田結海望堂」の名で昆布問屋とみやげ菓子つくりを続けました。戦前の敦賀は、港があり連隊があって、船員、兵隊、観光客などで賑わっていたのです。しかし、終戦直前の戦災ですべてを失ってしましました。
昭和21年夏、旧満州から復員してきた6代目・建三は、昆布菓子再開を願いましたが、それはかないませんでした。
それは砂糖が手に入らなかったからです。

当時、砂糖は統制品で、自由に入手できなかったため、サッカリンなどの代用品を使う同業者が多かったのですが、5代目・新治郎は「そんなものを使うと味が落ちる」といって拒み続け、統制解除になる昭和26年まで、菓子を作りませんでした。
6代目・建三は、焼け跡近くで食品店「紅屋」を開業、家そのものの没落を何とか食い止めました。
昭和26年、砂糖の統制が撤廃され、元のところへ店を戻して念願の伝統の菓子つくりを再開しました。
屋号は「海望堂」よりも「紅屋」の方が市民に親しまれるまでになっていたので「紅屋」の看板をそのまま使いました。
その後、販売量も順調に伸び、昭和53年には、現在の店舗に改築し、現在にいたります。

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